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なぜ人は「平成最後」という言葉に心惹かれるのか

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年が明け,平成31年1月となった現在。


年末年始の休暇も過ぎ、新しいクールのドラマやアニメも始まり、人々が「年が明けた」ということに徐々に慣れ始めている頃である。


みなさんご存じの通り、今年の4月に平成が終わり、5月からは新しい元号となる。
そのため、平成という慣れ親しんだ(私事でいえば,平成生まれのため昭和以前の時代を知らないのだが)時代が終わる。30年と少し。決して短くはない時間である。


この平成という時代の中で、インターネットが急速に普及し、グローバル化が大きく進んだ。あらゆるものが小型化し、AI技術も発展途上ながらすでに日常の中でその存在感を増している。


日本というごく限られた文化圏におけるごく限られた区分ではあるものの、人々は「平成」という時代に生き、それぞれの人生を謳歌していたのだ。


そんな平成が、あと4ヶ月弱で終わる。そのためか、「平成最後」という言葉が、去年の初夏頃からよく聞こえるようになってきた。
殊更、この前の年末年始では、「平成最後の大晦日」、「平成最後の初日の出」、「平成最後の一般参賀」と、「平成最後」を強調したフレーズがそこかしこで見受けられたような気がする。


これはきっと、人々が「平成最後」という言葉に心惹かれるからであろう。
一種の広告効果を期待して、という側面ももちろんあるだろうが、それ以上に、その言葉それ自体の響きに人々が魅力を感じていることを表しているのではなかろうか。


では、なぜ人は平成最後という言葉にこんなにも心惹かれるのであろうか。

「終わり」が持つ効果

何気ないものであるにもかかわらず、「終わり」を意識したことでなんとなくそれ以前と比べて「もっと触れたい」,「大事にしたい」と思ってしまったという経験は、誰にでもあるのではないだろうか。


例えば、特別好きでなかった店でも「近々閉店します」となれば、「最後に1回だけ行っておこう」となるかもしれないし、普段よく使っていた路線があと数ヶ月で廃止と決まったときに,「列車の窓から見える景色を目に焼き付けておこう」と思うかもしれない。


「最後」というものは、それだけで人の心を魅了する力を持っている。
これは、実際に心理学の領域でも実証されており、例えばある実験では単に複数のチョコレートを食べるというシンプルな課題において、「これが最後のチョコレートです」と言う場合とそうでない場合とでは、その味に対する評価が大きく変わる(「最後のチョコレート」と言われた場合に評価が高くなる)という結果が得られている。
(O'Bien, E. & Ellsworth, P. C. (2012). Saving the last for best: A positivity bias for end experiences. Psy Sci, 23, 163-165.)


「最後」ということは、「もうこれ以上接触する機会がない」ということである。
つまり、何もしなければ、もう二度とそれを目にすることはないのだ。


桜は散るからこそ美しいし、花火は一瞬で散るからこそ輝きを放つ。
「最後」は儚くも人の心に火を灯す明かりであり、人々を何かに突き動かす力を持っている。


そして「平成」とは、30年という時間、多くの人々が様々なものを積み上げ、作り上げてきた1つの大きな時代である。
そうした「時代」の「最後」とは、まさしく多くの人々の琴線に触れ、胸を焦がすものに違いない。

「平成最後」を消費するだけではいけない

ただ、「平成最後」という言葉を楽しみ、消費して満足するだけで、本当によいのであろうか。


「最後」だからとどこかへ行き、「最後」だからといつもより長く楽しみ、「最後」だからと新しいことをする。
そして「楽しかった」と感想を漏らし、いつもと同じ生活に戻る。それでよいのであろうか。


「最後」が持つ最大の魅力の1つは、「続いてきたものが終わる」ということであると僕は思う。
生命も、時代も、文化も、いつかは終わる。「最後」というものは、どうしようもない事実であるそれを、眼前に突きつけてくるものである。
だから、「最後」というからには、それまで続いてきた何かがあったはずである。
「最後」にだけ目を奪われてその部分を見失ってしまうのは、もったいないことなのではないだろうか。


僕たちは毎日を生きるのに必死で、人生を悠長に振り返ることなんてあまりしないだろう。
自分が今どの位置にいるのか、どこに向かっているのか、そんなことをいちいち確かめていたのでは、一歩前に進むのも著しく困難になるからだ。


「最後」とは、そうした中で1つ、少し立ち止まってこれまでの歩みを振り返るための機会を形作ってくれるものなのではないだろうか。


閉店が決まった店に意識を向けたら、ふだん自分がどこの店に行っていたか、何を食べたり何を買ったりしていたかを改めて考えるきっかけになるかもしれない。
廃止される路線に意識を向けたら、ふだん自分が周囲の景色をどのように見ていたか、移動する間何を考えていたかを知るきっかけになるかもしれない。


「最後」というもののは、単なる終わりではなく、そこに至るまでの道のりを振り返る機会を与えてくれるものなのではないだろうか。そして、その先どのように進めばいいかの指針を与えてくれるものでもあるのではないだろうか。


「平成」という時代が終わり、新しい時代がやってくる。

自分が「平成」という時代をどのように生き、過ごしてきたか。
そしてそれを踏まえて「新たな時代」をどのように生きようと思うのか、それを再認識させてくれるものこそ、「平成最後」なのではないか。そんなことを、僕は考えるのだ。

いつでもどこでも「最後」はある。

諸行無常、万物流転。
同じ日は二度とないし、同じ夏は二度と訪れないし、同じ瞬間は二度と存在しない。


とらえ方次第では、いつだってどこだって、「最後」はあるのだ。


「じゃあね」と別れたその夕暮れ時が、その友達と会える最後の瞬間だったかもしれないし、ふと街中で聴こえてきた曲が、どこかのミュージシャンが最後に残した歌だったかもしれない。


そして「最後」を意識すれば、そこに至るまでの道のり、自分の現在の立ち位置、そしてその先にあるいくつかの道標が見えてくるだろう。
そこには、ただ悲しく感傷的になるだけではない「最後」が持つ大きな役割が隠れているのだ。


「平成最後」という言葉は、「平成」を懐かしく振り返るだけでなく、新たな時代を生きようとする強い意思を形作る、そんなものであるからこそ、人々を惹きつけるのかもしれない。


このブログも、いつかは終わる日が来るのかもしれない。
だけどそんな「最後」があると思うからこそ、こんな風にとりとめもないことを好き勝手に書き散らすことができるのではないか、なんてことを思う。そんなとある冬の日の星月夜。